死別の悲しみから
娘さんの歿後戒名と共に、ご両親の生前戒名を授かった方からお葉書を頂戴をいたしました
三浦住職どの先日は人生
相談ありがとうございました
夫婦共に素晴らしい生前
戒名をいただいこの先も
娘の分まで頑張って生きていこうと約束しました
今まで他人に心を開いたことのなかった私に
住職の言葉がなぜか染みわたりました
人徳でしょうね善行は伝わりにくいです。
わが子を失うほど、辛く苦しいことはございません。
この方は娘さんをお亡くしになられました。辛かったと思います
もう何も信じられない。坊主なんて仏教なんて何にも役立たない
お金のことばっかりで。何にも良くならない。
と冒頭にお話しくださいました。
仏教の教えは、決して魔法でもありません。
苦しみは、何も変わることはありません。
しかし、苦しみを苦しみで無くなるのが、仏教の教えです。
それは、現実をどのように受け止めるか?によります。
自分中心の考え方ではなく、他の目線で、大きな視点から、社会全体から、いや自然の流れの中からどのようにとらえていくか?
悪いことばっかりじゃないか絶望に絶望に打ちひしがれてつらい日々を送っておられたんだと思います
住職、一人娘を失い、これから俺は、何のために生きなければならないのか?
なぜ?生きなければならない
なぜ?生きる。それは、人間の永遠のテーマでもありますね。
わが子のために、一生懸命頑張ってきた。
わが子が成長し、わが子が幸せになり、わが子に子供が出来、
孫の面倒でも見ながら余生を過ごす。
一般的な考えでもあるかと存じます。
しかし、事故や病気・災害など、何があるのか?わかりません。
だれも、未来を予測することは出来ないのです。
私は、土ぼとっていう、陶芸で仏様を作る教室をさせていただいています。
実に、平成10年から約7万体の仏様が完成しました。時には、全国のデパートで展示会をさせていただいています。
たくさんの方にお出会いし、たくさんの悲しみを見てまいりました。
辛いことです。悲しいことです。苦しいことですね。
お地蔵様をつくり、求め、我が子の供養のためにお越しになります
逆縁の方にかける言葉が見つからない
逆縁の方に掛ける言葉はありません。
住職に俺の気持ちが分かるか?
住職に私の気持ちがわかりますか?
大切な大切な我が子を失った気持ちは分かりますか?
と言われますが、
私には分かりません
同じ経験をしたわけではございませんから、そのことは私には答えをすることができません
仏教で説く教え「四諦八正道」という教えがあります
私が苦しいとき悲しいとき、そんな時にいつもこのことを思うんですね
四諦八正道とは?
四諦八正道というのは、苦 集 滅 道 四つの諦めです。
諦めとは、あきらめる事ではなく、物の通りを明らかにする。という意味があります
まず、苦しみをまず集めてらっしゃい。
あなたの苦しみ何ですか?
あなたの苦しみなんですか?
苦しみをいっぱいいっぱい集めていらっしゃい
その苦しみの原因って何ですか?
我が子を失って悲しい
それは、
我が子愛してたからなんですよね
我が子が大切で大切で愛して愛して育ててこられたのが
それが離れ離れになるという苦しみなんですね
でも同時に我が子を離したくないという
それは自分の欲望なんですね
苦しみの原因は、自分の欲望にある
苦しみの本質をよくよく見ていくと
その苦しみ一体なんだろうか
なぜ俺はこんなに苦しい
なぜこんなに苦しいだろうか
それは自分の思いどおりにしようという自分の心があるんですよね
でも世の中思い通りにならないことがたくさんあるんです。思い通りにならないことばかりなんですね
思いどおりにしようという自分の欲望が苦しみに変わってくるんです
これは死別だけの苦しみでもありません
四苦八苦
生老病死 病気にもなるし年もとる
亡くなっていきます
大好きな人とも別れなければいけないし、嫌いな方とも会わなきゃいけない、得ようと思っても得られない
四苦八苦というこの苦しみの中でその苦しみをしっかり見つめる
つらいことなんです
辛いことなんです
お釈迦様が昔こんな仏教の説話がございます
クリシャーガウタミーというお母さんのお子様を亡くされます。
抱いて、泣き回っていたというので、3か月から1歳ぐらいの赤ん坊だと思います
わが子の死に面して、ちょうどお釈迦様が村に来ることを聞きつけ、お釈迦様に懇願されます
どうか、この子をお救い下さい。何でもやりますので、どうかお釈迦様の神通力で生き返らせてくださいと願い出ます。
お釈迦様は答えられます
そうか 女よ!私が生き返らせてやる。しかしな、その為の薬を作るから、けしの実をもらっておいで
「分かりました」
インドの家庭には、どこにでもある「けしの実」です。
お釈迦様は、
ただしな死人を一人も出したことのない家からもらってくるんだぞ
「分かりました」
そのお母さんは各家庭に行って
けしの実をください 分かりました
それぐらいならたやすい御用だよ
でも死人を出したことのない家から出ないと貰っちゃダメなんです
お宅は誰か亡くなりましたか?
うちはね先日おばあちゃんがなくなってあーそれじゃダメです
他の家に行って先日お父さんが亡くなってね
他の家に行って 先日主人が亡くなって
お母さんは分かるんですね
死なない家はない
必ず死というのはやってくるという分かることなんですが
そこで、ああ諦めなきゃいけないのかな
というのとは、また違うと思うんです
私は亡くなった我が子
死んだらおしまいというのではなく
亡くなった我が子を 生きていると同じぐらい
愛していくことなんです
死んだ我が子と生きた我が子を比べるのではない
生きた我が子を愛すると同時に死んだ死んでしまった我が子をしっかりと愛していくんです
私よくですね
四国八十八巡礼の時に同行二人って書いて巡礼の方おられますね
弘法大師空海さんは、決して死んでおられるわけではないです
空海さんは未だにまだ生きておられる
そして毎日食事を持っていかれるんですね
空海さんはあれ同行二人っていうのは生きている空海さんと一緒に歩ませていただいているんです
仏教の教えも
二千五百年経っても未だにお釈迦様はこの世に存在をし
なぜなれば目を閉じそして姿形は見えなくなったとしても
そのお釈迦様の思いであったり心であったり空海さんであり
また我が子であり
そういった思いであり思い出でありまた教えであり
そういったものはずっと
続いていくんですだから死んだらおしまいでは私はないと思う
会いたくなれば目を閉じて心でお話ができるんです
「おかげさま」という言葉があります
いろんな方のご縁をいただいて我が事は短い間だった
悲しいかな短い間だったけれどもでも別の子では駄目なんですね
その我が子と出会ったこと我が子とこうして親子でいた、この思い出でありまたその時にいただいた
たくさんのご縁であり楽しさでありそういったものとともに死んだままその姿のまま我が子を愛して行く
リビングの椅子にご遺骨が座っている
別のご家庭の娘さんを亡くしたご家庭にご法事に伺いました
そうしますとお遺骨が仏壇の前にあるんではないですねリビングのソファーにご遺骨が置かれているんです
我が子を失ったそのお母さんは
実はいろいろお話を聞くと本当に数日間ずっと発狂されておられたようなそんな毎日だったらしいです
でもその我が子を離すことができずにそしてリビングの椅子に座って
毎日料理をまた一緒に夕食を囲んでおられるんです
傍から見ると
そんなことしちゃ駄目だ
そんなことしちゃ駄目だっていう方もあります
いつまでもいつまでも悲しんでいれば我が子も悲しむじゃないか
私は思います
いつまでだっていいです。いつまでだって
我が子と共に気の済むまで一緒に
歩んでいかれたらいい
そしてしっかりと死んだそのまま
の我が子愛して
そして一緒に歩んでいかれたら良い
この世が終わってあの世に行くんだろうかって
いやいやそうじゃない
私は仏様の世界で生まれてこのようにやってきて
この上でたくさんの修行をして苦しいこと楽しいこと嬉しいこと
たくさんの修行をして
そしてあの世に帰って行く
一蓮托生という言葉があるように
またあの世で会いましょ
倶会一処いう言葉がありますように
また仏様の世界で会いましょう
この世は苦しみの連続なんだ
でも苦しみが多ければ多いほど強くなれるし
悲しみが多ければ多いほど優しくなれるんです
私たちはそして心を磨きにこの世に
やっと来ているんだ
そしてその優しさ強さ
そういったものが今度は何か
自分以外のものに目を向けることができれば
利他で生きる
例えば私どものお寺では土ぼとけ 陶芸仏様を作っています
一番最初に作った仏様は自分のために作りましょう
でも二回目からは同じように苦しみ
悲しみ抱えておられるところに
お地蔵様が駆けつけていってくださるお地蔵様がにっこり笑ってて
そんな人のためになるような仏様を作りましょうと
私は呼びかけをさせていただいております
辛いことだし苦しいことだし
こんな法話のような話ではなかなか通じないかもしれません
でもこの苦しみを私はしっかりと受け止めて
受け止めることしか解決方法はない
と私は強く思います
先日お出会いをした時には
私ももっとこのようなお話をしたかったんですが
なかなか私もできずに
こうしてユーチューブの中で話をさせていただきました
今度四十九日法要に伺わせていただきます
一つ一つ一つ一つ
一緒にご供養して参りましょう
ありがとうございました
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