僧研修会

僧研修
僧研修

僧になるために行う加行(けぎょう)には、四度加行(しどけぎょう)といわれ、4つの修行があります。

これは、真言を唱え、印を結び、仏様に祈る修行です。

一般的に言うと、お坊さんの基本編のようなものです。

四度加行(しどけぎょう)は、日本密教において、修行者が阿闍梨となるための伝法灌頂を授かるに先立って修習される四段階の加行(けぎょう, 梵語:prayoga)の総称。空海は「四度加行」という名称を用いておらず、覚鑁によって「四度加行」が伝法灌頂を受けるための最低条件と定められたと考えられている。現代の四度加行の日数は空海の御遺告に基づき100日とする宗派が大半であるが、古来は特に日数を定めていない。しかし小野流では基本的に四度加行に数年を課しており、憲深は晩年になり護摩を許され感涙を流しているほど四度加行は容易に授けられるものではなかった。一方、仁和寺では四度加行を45日とした記録が残っており、弟子の機根に合わせた伝授が成されていた。 真言宗、天台宗それぞれの内部の流派により、順序や内容の細部に相違があるが、以下の四段階からなる。

十八道法
荘厳行者法 – 浄三業、仏部、蓮花部、金剛部、被甲護身
結界法 – 地結、四方結
荘厳道場法 – 道場観、大虚空蔵
勧請法 – 送車輅、請車輅、迎請本尊
結護法 – 結界、虚空網、火院
供養法 – 閼伽、蓮花座、普供養
金剛界法(広沢流では護摩を金剛界に摂するため胎蔵界法を先とする)
胎蔵界法
護摩の法

ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BA%A6%E5%8A%A0%E8%A1%8C
加行

2月13日~5月14日の間 加行期間が定められ、一洛叉(いちらくしゃ)10万回の不動真言を唱えます。

ただ現実的には、山にこもって修行を続けていくことは難しく、一定の期間登山してそれ以外は、自行となり、自宅での修行が続く形です。

不動明王は、日本三大不動 高野山の赤不動 京都青蓮院の青不動 そして三井寺の黄不動です

当院は、三井寺の流れをくむお寺(単立)として、黄不動が本尊です。

その黄不動尊をかけての修行を行います。

智証大師縁起について今昔物語にこのように伝えられています。

巻11第12話 智証大師亙唐伝顕密法帰来語 第十二

今は昔、文徳天皇の御代に、智証大師(円珍)という聖がありました。俗姓は和気の氏。讃岐の国那珂の郡金倉の郷(香川県丸亀市)の人です。

父は財産家で、母は佐伯の氏、高野の弘法大師(空海)の姪でした。その母は夢で、朝日がのぼり、光が流星となって口の中にそそぐ体験をしました。母が懐妊したのはそのすぐ後でした。

成長して八歳とになるころ、児は父に向かって言いました。
「仏典の中に因果経という経があるといいます。願わくは、その経を読み習いたいと思います」
父は驚き怪しみ、すぐにその経を求めて与えました。これを得た児は朝暮に読誦して忘れませんでした。郷の人はこれを聞いて、賛嘆したり不思議がったりしました。

絵因果経(奈良時代、奈良国立博物館)

十歳になると、毛詩・論語・漢書・文選などの漢籍をただ一度見たのみで、声に出して暗唱することができました。不思議なことでした。

十四歳になって家を出て、京に入り、叔父の仁徳という僧について、比叡山に登りました。仁徳は言いました。
「おまえはただ者ではない。しかし、私は凡夫である。おまえを私の弟子とすることはできない」
叔父はそう言うと、児を初代の天台座主、義真の弟子としました。義真は児のさまを見てとても喜び、心を尽くして法華経や最勝経などの経や天台宗の法文を授けました。

十九歳で出家して受戒し、円珍と名乗りました。その後、山に籠ってたゆまず修行を続けました。

智証大師像(香川県善通寺市金倉寺)頭部が卵形なのは予知能力の証と考えられた

天皇がこのことをお聞きになり、資金や食糧を給い、貴び帰依なさいました。
あるとき、石龕(石室)に籠もって修行していたところ、金色の人が現れて言いました。

「おまえは私のすがたを図画して、ねんごろに帰依すべし」
和尚は問いました。

「あなたは誰ですか」
金色の人は答えました。
私は金色の不動明王である。法を護るために、常におまえに随う。すみやかに三密(身・口・意を仏と合一させる秘法)を極め、衆生(人々)を導くべし


和尚がその形を見ると、とても貴く、また恐しいものでした。礼拝恭敬して、画工に命じてそのすがたを描かせました。その像は今もあります。

和尚は思っていました。
「宋(唐)にわたって、天台山に登り聖跡を礼拝し、五台山に詣でて文殊に会いたい(五台山は文殊の住む地と言われていた)」
仁寿元年(西暦851年)四月十五日、和尚は京を出て九州に向かいました。同三年八月九日、九州にあった商人・欽良暉が大陸にわたるとき、同じ船に乗りました。東の風がはやく吹いて、船は飛ぶように進みました。

十三日の申時(午後四時ごろ)になると、北風が吹き、船は流されはじめました。翌日、辰時(午後八時ごろ)に琉球国(沖縄か台湾か不明)に漂着しました。海のまんなかにあって、人を食べる国です。そのときはすでに風がやんでいて、どちらに行くべきかもわかりませんでした。陸のほうを見ると、数十人の人が、鉾を持って探しています。欽良暉はこれを見ると泣き悲しみました、和尚が理由を問うと答えました。
「ここは人を食う国です。悲しいかな、われわれはここで命を失うでしょう」


和尚はこれを聞くと、心を至して不動尊を念じました。すると、金色の人が船の舳先に立ちました。先年、日本で現われた金色の人でした。船に同乗していた数十の人もこれを見ました。

にわかに辰巳(南東)の風がふいてきました。船は戌亥(北西)に向かって飛ぶように進みました。次の日の正午ごろ、嶺南道、福州連江県(福建省福州市)のあたりにつきました。その州の長官は和尚のありさまを聞いて、しばらく開元寺に住むことを許可しました。やがて、その話は王城(長安)に伝わり、皇帝(宣宗)は和尚の徳行を聞いて、大いに貴び、深く帰依しました。

https://hon-yak.net/11-12-1/
遶道
白鳥神社

山をめぐって、汲水を行います。当地の鎮守である白鳥神社にて法楽をあげて水を頂きます。

先達に導かれながら、2名の行者さんが修行されています。

修行救済 救世利人のために仏道精進をお願いします。

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