渋沢栄一さんの戒名
2024年上半期をめどに千円、5千円、1万円の紙幣(日本銀行券)が一新されます。千円、5千円札は20年ぶり、1万円札は1984年に聖徳太子から福沢諭吉になって以来、40年ぶりの人物の刷新だそうです。
2024年から流通する予定の新一万円札の肖像となる渋沢栄一さん。
渋沢 栄一略歴
(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の豪農出身の武士、官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、民部省を経て直属の上司である大蔵大輔・井上馨の下で大蔵少輔・吉田清成等と共に造幣・戸籍・出納等様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社、経済団体の設立・経営に関わり、同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現・一橋大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)等の実業教育、東京女学館等の女子教育、台湾協会学校(現・拓殖大学)の設立、二松學舍(現・二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また「論語と算盤」の言葉で代表される、道徳経済合一の思想でも広く知られている
渋沢栄一は、武蔵国榛沢郡血洗島(現埼玉県深谷市)出生
彼の成長期は、幕末の風雲が日本全土を襲っていた。
多感な栄一は政治に関心を持ち、尊王攘夷論に共鳴するが、一転して一橋家に仕え、 慶喜が将軍になると幕臣となり、慶喜の弟昭武に随行してフランスに渡り、 近代的な産業設備や経済制度を見聞し、先進国への視野を広げた。
このような逸材を明治新政府が放っておくわけがない。 大蔵省租司、民部省改正掛長などを歴任、第一回国立銀行創立を手始めに、 五百社あまりの会社創立に貢献し、近代日本の資本主義的経営の確立と指導に辣腕をふるった。 まさに近代日本の無数の礎石を築いたのだった。 西に五代友厚あり、東に渋沢栄一ありといわれ、経済界の両巨頭でもあった。
そしてまた墓石も超弩級である。そんじょそこらの大名墓なんて問題ではない。 超一級の経済人の世界である。
戒名 泰徳院殿仁智義讓青淵大居士
没年齢 91歳
墓の所在地 東京都台東区・谷中霊園
泰徳院殿仁智義譲青淵大居士
渋沢栄一は徳川家の菩提寺である東叡山寛永寺の檀家総代を1907年から務めました。また1924年からは徳川家と縁の深い金竜山浅草寺の信徒総代となったそうです。
宗派は天台宗 お墓は、都営「谷中霊園」にあります。(戒名を授けた方が不明でしたので天台宗かどうかは確定できていません)
まずは、戒名は「青淵(せいえん)」
青淵は、生前からペンネームのようなもので、家にあった淵を由縁にしているようです。
子供のころからのペンネームがそのまま戒名に使われている。
次に道号「仁智義譲(じんちぎじょう)」
「仁」とは隣人の愛や同情心の心です。人の痛みがわかるという事です。仁の徳がわかり、その徳を知る智があるとされています。
平たく言えば「 思いやりがあって知恵があり賢い方」であるとみることが出来ます。
また
義譲とは、「私利を追わず公益を図る」との考えを生涯貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めたとの逸話が残っていることから、社会のために尽くされた方であると見れるでしょう。
「仁義を重んじ、知恵をもって、社会のために尽くしてこられた」
そして院号が、泰徳院殿 位号が大居士
まさに最上級の院殿大居士です。これ以上の戒名はございません。
まず、院殿号をはじめてつかったのが、足利尊氏であるといわれています。
足利尊氏は、「等持院」というお寺を建立しています。
この院号というのは、建立したお寺を意味します。しかし、院号のままだと、天皇陛下と同格になってしまう。
(かといって等院とか?持院とか?等持とか?お寺の名前ですから短くするわけにはいきませんね。そこで、天皇陛下より一歩下がってという意味から殿を付けたとされています。これは、その後徳川将軍にも使われます。)
足利尊氏 等持院殿仁山妙義大居士
徳川家康 安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士
豊臣秀吉 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
西郷隆盛 南州寺殿威徳隆盛大居士
山本五十六 大義院殿誠忠長陵大居士
田中角栄 政覚院殿越山徳栄大居士
吉田茂 叡光院殿徹誉明徳素匯大居士
昔の方は、実際にお寺を建立されています。
渋沢栄一さんが、お寺を建立したというのはわかりませんでしたが、寛永寺や浅草寺の総代をされておられ、寺院建立以上に寄付をされていたのではないかと推測します。
「泰」とは、両手ですくえば、自らこぼれ落ちてなくなることからなめらかを意味し転じて安らかな境地をいいます。大きく、おちついている。ゆとりがある。やすらかという意味があります。日本統一した豊臣秀吉にも泰が使われていますが、国や社会を安らかにされたとも見れるのではないでしょうか?
次に徳とは、精神の修養によってその身に得たすぐれた品性をあらわします。ですから、人の上につく方、経営者や教師といった、人を導く方に使われます。
お経にもよく「徳」が使われています。
例えば、華厳経には、徳は善根、功徳、徳行、美徳などを意味をし、仏性の働きが徳を行うとされています。善財童子が参じた53人の善智識の一人として徳雲比丘の名があります。
また、回向文の中に功徳大宝海とされ、仏の功徳の深さが説かれています。
加えて、徳川将軍には、多くの方に「徳」が使われています。
こういったことが関係するのか?わかりません。また、この戒名は私が授与したわけではありませんので、あくまで、想像して書いておりますのでご承知くださいね。
最後に、
院殿大居士で戒名を求められたら・・・
戒名は、平等の3万円としております。
ですが、戒名の位が高ければ高いほどいいというものではありません。
一般の方が、徳川家康や豊臣秀吉クラスと同等の戒名を授かることは、
素晴らしいとか、かっこいいというより、馬鹿じゃない?
というようにおかしな戒名になってしまいます。
社会のためにそれなりに尽くした方でないと、子孫が恥ずかしくなってしまいます。
ですから、多くの場合、亡くなって院殿居士を希望された場合は、お断りするか、社会貢献の証を見せていただいております。
ただ、生前戒名を授かる方に、最上級でという希望がありました。
にっこり笑いながら喜んでお授けしました。
良い戒名をもらって、良かったと思うか?
その戒名にふさわしい生き方をしなければいけないと思うか?
さてさて、これからの生き方が問われてきますね。
院殿居士の意味は、文字数や戒名料という問題を超えた、社会的責任があると考えます。
[char no=”2″ char=”三浦尊明”]戒名はランクが高ければ、良いのではありませんね[/char]
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