天台宗の和尚さんが、はじめて戒名を付けて動画で説明されていますのでリンク紹介します
(動画を共有しただけで、本寿院とは関係ありません。あくまで参考にて)
■【天台宗の戒名】
天台宗の起源
釈尊の残された教えは、南は東南アジアの国々へ広まり、北はガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと広まり、やがて中国へと伝わっていきます。多くの求法の僧により、数々の経典が伝えられましたが、その中でも『妙法蓮華経』(『法華経』)という経典に釈尊の「全ての人に悟りの世界を」という考え方がもっとも明確に述べられています。
この教えに注目し仏教全体の教義を体系付けたのが智顗(ちぎ)です。智顗(538年~597年)はその晩年を杭州の南の天台山で過ごし、弟子の養成に努めたことから「天台大師」と諡(おくりな)され、またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、智顗を高祖と唱えるのはこのためです。
天台宗の教え
天台大師の教えを日本に伝え、比叡山を開いて教え弘めたのは伝教大師最澄(さいちょう)です。
その教えは…
第一 全ての人は皆、仏の子供と宣言しました。(悉有仏性)
釈尊が悟りを開かれたから、悟りの世界が存在するのではありません。それはニュートンが林檎の落ちるのを見ようが見まいが引力が存在するのと同じことです。悟りへの道は明らかに存在するのです。そして悟りに至る種は生まれながらにして私たちの心に植付けられていると宣言しました。あとはこのことに気付き、その種をどのように育てるかということです。
第二 悟りに至る方法を全ての人々に開放しました。
仏教には八万四千もの教えがあると言われていますが、それらは別々な悟りを得る教えではなく、全ては釈尊と同じ悟りに至る方法の一つでもあるのです。例えば座禅でも念仏でも護摩供を修することでも、巡礼でも、写経でも、もっと言えば茶道、華道でも、また絵画、彫刻でも方法はさまざまでいいのですが、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。
多くの開祖を輩出した天台宗が日本仏教の母山と言われるのも、また日本文化の根源と言われるのもこのことからです。
第三 まず、自分自身が仏であることに目覚めましょう。
そのために天台宗ではお授戒を奨めています。戒を授かるということは我が身に仏さまをお迎えすることです。仏さまとともに生きる人を菩薩といい、その行いを菩薩行といいます。
第四 一隅を照らしましょう。(一隅を照らす運動)
心に仏さまを頂いた人たちが手を繋ぎ合って暮らす社会はそのまま仏さまの世界です。一日も早くそんな世の中にしたいと天台宗では考え「一隅を照らす」運動を進めています。
まず自分自身を輝いた存在としましょう。その輝きが周りも照らします。一人一人が輝きあい、手をつなぐことができればすばらしい世界が生まれます。
<天台宗の教義>
釈迦の多くの経文の中で最高の経とされる「法華経」を中心におき「人は誰でも仏になれる種子があり、縁にふれて努力すれば成仏できる」と教えている。
天台宗の教義は、総合仏教でありましたので、浄土宗の法然 臨済宗の栄西 曹洞宗の道元 浄土真宗の親鸞 日蓮宗の日蓮といった各宗祖も、この比叡山で学ばれ、その教えの専門的な事を説かれ、広められていきます。
<ご本尊>阿弥陀如来(釈迦如来、薬師如来をまつる事もある)
<本山>天台宗 http://www.tendai.or.jp/
比叡山延暦寺<宗祖>伝教大師(最澄)西暦806年
<天台宗の諸派>
天台寺門宗
三井寺は、正式には「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。
平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興され、以来一千百余年にわたってその教法を今日に伝えてきました。 古い歴史と文化、多くの文化財や伝説の残る三井寺。
本寿院は、もともと三井寺山内にございました。ですから法脈は、天台宗の流れをくみます。
昭和29年4月2日単立として認証を受け、現在では滋賀県大津市大平にございます。
天台真盛宗
滋賀県大津市の《天台真盛宗総本山 西教寺》は聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。
その後、久しく荒廃していましたが、慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としました。恵心僧都も入寺、修業されたところから次第に栄えるようになりました。鎌倉時代の正中2年(1325)に入寺された恵鎮(円観)上人は、伝教大師が畢生の事業として提唱された大乗円頓戒を復興、その後百有余年を経た文明18年(1486)に真盛上人が入寺されるに至り、堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされました。以来全国に約四百余りの末寺を有する総本山となりました。
天台宗はほとんどの宗派の母山と言われます。各宗の開祖達~比叡山で学ばれました~
法然上人
(1133~1212) 浄土宗の開祖
美作の人。13歳で比叡山に上り、経典・論書を広く学ぶ。承安5年(1175)、善導『観無量寿経疏』の「念仏を称えると阿弥陀仏の本願力に乗じて必ず極楽往生できる」という説により回心し、比叡山を下りて東山吉水に行き、本願念仏の教えを広めた。
栄西禅師
(1141~1215) 臨済宗の開祖
備中の人。14歳で比叡山に入り、その後2度にわたって中国に留学。臨済宗黄龍派の禅と戒を学ぶ。帰国後博多の聖福寺を拠点に活動を始め、鎌倉の北条政子など、幕府の援助で京都と鎌倉に活動の拠点を設け、禅の教えが認知されるようになった。
親鸞聖人
(1173~1262) 見真大師 浄土真宗の開祖
鎌倉初期、京都の人。9歳で比叡山の慈円の門下に入り、29歳で法然の弟子となり、他力易行門を会得した。35歳で配流の身となってからは越後、関東と教化の旅を続け、在家往生の実を示すため自ら肉食妻帯をした。『教行信証』を著わし、浄土真宗を開いた。90歳、京都に寂す。
道元禅師
(1200~1253) 承陽大師 日本曹洞宗の開祖
京都の人。13歳で比叡山に登り、翌年、公円のもとで剃髪し天台の秘奥を学ぶ。後、建仁寺で栄西の高足の明全に師事し、禅宗に帰した。貞応2年(1223)、中国に渡って曹洞宗を学び、帰朝後は京都に興聖寺を開いて、只管打坐を唱導した。寛元2年(1244)、越前に大仏寺(永平寺)を創建し根本道場とした。
日蓮上人
(1222~1282) 立正大師 日蓮宗の開祖
安房の人。12歳で安房清澄山に登り、道善に師事。21歳で比叡山に登り修学すると共に、諸所を遊歴し、31歳帰郷。初めて南無妙法蓮華経の題目を唱え、以後『法華経』の法門を弘通した。文永11年(1274)身延山に住し、弘安5年(1282)、池上に寂した。
戒名のつけ方
<経典>法華経、般若心経、大日経、浄土三部経
<天台宗の戒名形式>
□□△△信士・信女
□□△△居士・大姉
〇〇院□□△△居士・大姉
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院号 道号 法号 位号
天台宗では、二字法名の上に二字の道号を付けて四字名とするのが通例となっています。
道号は表徳の号であって、仏教徒として修行・信仰により得たところの人格・功績等を表示する二字の名であります。
男性には、岳 女性には室を付ける場合も多くみられます。
道号と法名を組み合わせて四字の語義を考え、読んで意味が通じ、読みくだしが自然で、
無理のない発音で読めるように注意が必要です。
天台宗の戒名例
A・F・フェノロサの戒名 玄智院明徹諦信居士
篤姫の戒名 天璋院殿従三位敬順貞静大姉