大切な先祖供養

はじめに
 
 自分が今ここに生きている---

senzokuyouwosinasai21このことを、いま一度多くの人に考えてもらいたいと思い、私は筆をとった。

 科学や生活文化の発達、核家族化などの中にあって、人はともすれば,自分は一人でこの世に存在し、生きているんだ。このような錯覚に陥りがちであり、現にそうした気持の人も多いようにみうけられる.

 ところが実は、そうした人々ほど、あいもかわらず、様々な悩みを抱え続けたままなのである。そして、不平不満やストレスでたまりたまった精神の疲れはますます心身をむしばむ、という悪循環の中に自らを置いているといっても過言ではなかろう。

このような現在であるが故に、私は一人一人に、自分の原点=自分がいま存在していることを、ぜひ一度深く見つめてごらんなさい、といいたいのである。

人は、誰一人として木の股から生まれたわけでもなけれぱ、空から降ってきたわけでもない。それぞれに父と母があり、そしてその父母にもまた父母があり、そのまた父母があり・・・すべての人は、はかり知れない過去から現在に至る「へその緒」でつながっているのである。

これは肉親の縁であり、その一人一人の宿命でもある。決して、一人で仔在しているのではない。連綿と続く、血のつながりの中に在るのである。

 この事実に思いをはせ、今の自分を生み出してくれた御先祖にまず感謝の念と恩に報いるという気持ちをもってもらいたいと私は思う。これは大変大事なことなのである。

恩に報いたいと思えば、次に、どうにかしてその気持を御先祖に届けたいと考えるのが当然であろう。この気持を表わす行為が、先祖供養なのである。

すでにこの世にいない人々に対して、現世に生きる我々には祈るという「孝行」しかできない。どうか、よき所に生まれてほしい,成仏してほしい’と祈るばかりである。

こうした気持で先祖供養を行なうのであるが、この功徳は、実は、祈る人、つまり現在生きている人にも大きく及んでくるのである。

回向という言葉を聞いたことのある人は多いと思う。善行を積めば、それは巡り巡って、善い結果として現われてくるのである。これは、頭で考えたり理屈をこねたりしてわかることではない。

善行を積む、即ち、ただ感謝の念で供養を行なえば、自ずと分ってくることである。逆にいえば、行なわない限りは、決して巡って来るものではないわけである。

 先祖を大切にしている人々の中には、自分の会社や団体の先祖ともいらベき人、つまり、これまで支えてきた物故社員ヘの供養も欠かさない人が多い。

当院でも多くの供養がなされているが、これらの人々は、当院へみえられる度に、一回りも二回りも大きな人物となっているように感じられる。

日々の感謝の気持とその恩に報いる供養という行為が、その人を豊かにし、周囲の人望を集めているのであろう。

こらした人々が仕事に成功し、人生を生き生きと送られているのを目にするにつけ、先祖供養の大切さを一人でも多くの人に一日でも早く知ってほしいと、攻めて考える次第である。

1なぜ先祖供養が必要か

 「今、我身が在る」ということは、我身を生んでくれた父母があり、祖先があるということである。

決して、我身が我身を生んだわけではない。ところが、人間は自分というものを一番大切にし誰よりも自分を愛するものであるが、とかく、この我身が何処から来たかということを忘れがちである.どのような人間にも両親があり、先祖があるわけである。

先祖.両親が存在しなくて、自分はありえない。こう考える時、その命の流れの根源に対して感謝と尊敬の念を抱くのは当然である。

 仏教は三世を説く。過去・現在・未来のこの時の流れに人間や物事は存在する、と説く。

人間の一生は平均的に七十有余年というが、この三世の時の流れの中にあっては、考え方によれば、七十有余年の歳月というものは瞬時にすぎないわけである.未来永劫続くであろうこの時の流れの中に、人間は生きているわけである。そして、生まれた者は必ず死ぬという宿命を担っているわけである.

 そしてまた、子がどういってみても否定できないことは、両親があるという事実である。

 こうした中にあって、過去、即ち親や先祖に対して心を向けるということは当たり前のことであり、大事なことである。この心構え自体が、人間としての生き方、姿勢にも大きく関わりあってくるものである。

 ところが、現代人は已れ中心主義の考えをもち、他人より自分、親の存在より已れ、と考えがちである。
このような風潮にあって、今、先祖供養という我身のルーツに想いを至す時、現代人が失いつつある心の根源を再発見するように思えてならない。

そして、祈りの心というものに気づく時、輝くような人間性が現われてくるのではないか。どのような無信心な、宗教というものを信じない人でも、必ず祈りというものをもっているものである。人によってその対象は様々である一時には仏様であり神様であり、キリスト様である。自分自身ということもある。また、人自然であり、目に見えない荷物かに向かって祈るという場合もある。そして、この祈りというものは人間特有のもので、動物にはない。祈りというものは、最も人間の純粋な姿といえよう。祈る世界には、悪人も善人もないわけである。

 こうした中で自分自身が、まず親によってこの世に生まれ育てられてきたということと、また、その親の親に報思の念をもつということは、当然の祈り行為であり、人間として忘れてならないことである。

 仏教は、この先祖に対する報恩の行為を善行と説き、それによって析る者自身が果報を受けると説くのである。

2追善とはあなたが功徳を得ることである

 追善―この言葉を詳しくいえば追善供養ということである。

仏様や先祖に対していろいろの供物を供えるのも供養であり、僧侶に読経してもらうのも供養であり、集まった人々に飲食を提供するのも供養である。これら仏事の時に人々に施すのも、供養である。

 廻向文に「願わ<ばこの功徳をもって遍く一切に及ぼし、我らと衆生と共に仏道を成ぜん」というL言葉があるが、功徳、即ち読経や緒々の供養によって、先祖や有緑無縁の諸霊、周囲の全ての人たちにこれが及び、そしてすべての人と共に仏道を成ぜん、といっているわけである。

 ところで、これら追善供養を行なうと、仏典では、全部の功徳を七とすれば、先祖は七分の一の功徳を得、後の七分の六は拝んだ者、祈った者が得ることができる、と説いている。だから、善が拝んだ者を追いかけてくるわけである。地蔵本願経には「一切の聖事の七分の内、即ち一を追うなり。六分の功徳は生者自ら利す」と書かれてある。

仏説灌頂経には、「この人の為に福を修す」とある。この場合のこの人とは先祖のことであり、祈とは追善供養という善行のことである。

「七分の内、為に一を得るなり。何の故にしかるか。その前生道徳を信ぜざるを得んの故に福徳七分の一を得せしむ」と説かれている。これはどういうことかというと、人間というものは、生きている間に、いろいろの迷いのために自分自身も気づかないうちに罪業をつくったり、仏の教えを信じなかったり、善根を積むということが少ないので、その結果を得るところが少ないというわけである。

3 廻向とはあなたに福がやってくることである

 迫善という言葉に対して、先祖の冥福を祈ることを廻向するともいう。

迫善廻向というわけである。廻向とはムカウと書く。いってみれば、これは回転趣向という意味である。心からお経を読み、供物を供え、先祖を拝むということは、拝む人自身に仏果を向かわさしむることである。

 そしてこの廻向には三つあって、

一つを菩提廻向といっている。菩提とは悟りという意味で、一切の悟りを開く心をもってすれば、良い原因となって徳を得るというのである。

二つに、衆生廻向である。心から総ての人々を愛する気持をもって祈るから、先祖から一切の人々にこれが与えられるのである。

三つに、実際廻向である。現世にはいろいろの迷い事があるが、事実の智慧を求めて真理を捉え修行すると絶対人格者とならん、ということを説くのである。追善とはあなたが功徳を得ることである

4 先祖供養の意味と供養のいろいろ

 供養には、僧侶を招いてお経をあげること、その仏事に集まった人々に布施をすることといろいろあるが、一般的に仏前にお供えする供養について述べよう。

なお、供養について必要なことは、客人を迎えるような気持を心からもつということである。

 お客様を迎えるについて、

 いくら山海の珍味をたくさん並ベてみても、接待をするものが心をこめて迎えなけれぱ、客もまたくつろぐこともできないし、食べてもうまくないはずである。すべて心をこめて迎えるならば、一膳のご飯でも心が通じて、客は喜ぶものである。

だから、先祖や仏に対して供養する場合、お花一本たてるにしても、ただ習慣的にたてるというのではなく、心をもってするべきである。

 さて供養といえぱ、通常、仏前にお水、塗香、花、焼香、飲食、燈明などを供える。そして、これを六種供養という。仏教の六波羅道と関係が深く、お水は布施行であり、塗香は持戒行であり、お花は忍行、焼香は精進行、飲食は禅定行であり、燈明は智慧行を意味している。

 そこで、先ほども述ぺたように、供養というものは客人を心して迎えるのと同じ心構えが必要といったが、その心も物も共に清らかである必要がある。心が清くても物が不浄であったり、物が清くても心が不浄であったり、心も物も不浄であってはならないわけである。

例えば、何日もかえない水だとか、壊のたまったような腐った水などは好ましくない。飲食も同じである。

線香も、香り高いものが理想とされる。お花も、生花でなけれぱならない。古くて妙な匂いを放つようなものでは、意味がないわけである。

 心の場合の不浄とは、信心だとか報恩感謝の心が欠けていてはならないし、また、強いられていやいや供えたり、他人に見られると都合が悪いからといって供えたりするものではない、ということである。

 ところで、水とは仏教で「あか」というが、元来、水というものは不浄な汚れを洗い清めるものとされている。

心の迷いもさっぱり洗い落としたいものである。

また、水というものは、考えてみると、遍く行き渡って、総てに潤いを与えるものである。灌頂といって帝王が即位する時に頭の頂きに水を注ぐのも、また、洒水といって、仏前で散杖を用い浄めるのも、いずれも、水が清らかであり清めるものであるという考えから成り立ったものである。

特に洒水器に香を投じたり花を投ずるのは、よりその水を清めようというものである。

 次に塗香であるが、仏典にも「持戒の香を用いてその身に塗摩せよ」と書かれているように、芳しい匂いの香のことである。これをもって、体とか手を清めるわけである。元来、インドは熱帯国であるところから、このような香をもって彼らの体臭を防ぎ、清涼感を味わったものだと思われる。
 
 通常、僧侶はこれを指先でつまみ、両手に塗り、そして体全体を清めるような作法を行なうものである。塗香は、所によって求めにくいものである。
なぜなら、広く市販されていない。しかし、お香を取り扱っている店に行けば入手することができる。もし香がない場合、樒の葉を器の中に盛って、塗香と思ってお供えをすればよいわけである。

 次にお花である。花というものは、見る人をして心を和ませ、安らぎを与える自然の美である。このような心を日常生活に活用するならば、どんなことをいわれようと、よく忍ぶことができるわけである。花が咲き誇っているように、人それぞれに微笑みをもって接すれば、相手もそのような心になる。花を忍辱行にあてるのもこのよらな意味があり、「忍辱もって華鬘となし、その味を荘厳せよ]とも仏典に説かれている。

5七七日の追善供養

 人間は、過去から現在、そして未来ヘとつながる中に生きている。

仏教で三世という。そこで、人間が死ぬと、一般的には初七日から始まって二七日、Ξ七日、四七日、五七日、六七日と、七日毎に法事を行なう。これは、この世とあの世との間にある世界を中有と中陰と呼び、その期間が四十九日続くといわれるところから来たものである。この間に次の世界のどこに生まれるかが決定される。と信じられているのである。
 
 人間が死ねぱ体は灰になり、心の働きもなくなり、すべて空に帰するわけであるが、その人間の現世における行ない、即ち業というものは、この世に残っている。他人に及ぼした影響、築きあげた事業、考えた思想、皆これは業としてこの世に残りているわけである。その業の報いによって、死後、行く先々が決まると考えるのである。そして、それが七日毎に裁かれると信じられている。

 現世で畜生のような行ないをした者は、あの世では生道ヘ落ちるであろうし、この世で良き行ないをすれば極楽へ行ける、ということである。中有の世界において七日毎に審判をうけ、その先行きがきまるわけであるが、誰しも死後よい世界に生まれたいと思うのは当然のことである。

 ところが、死者は今さら現世において行なった行為を消すすぺもなく、審判官たる閻魔をごまかすわけにはいかない。これらの行ないは、総て閻魔帳に記録されているわけである。もし嘘をいえば、地獄に落ちて舌を抜かれるのである。

 そこで、為すすベもない死者に対して、残れた者が法事という善行を積むことによって、その功徳を死者に振り向け、閻魔帳に記録されている罪業を消滅させようということから始まりたのが、まず初七日の法要である。

そして、この審判は七日目毎に七回続くとされ、従ってそれに応じて法事も七回行なわなければならないわけで、特に七七日忌とよぱれる四十九日には、最後の審判が下されるところから、ねんごろな法事が勤められなければならない、と考えられているのである。

 地蔵菩薩本願経には「もし能く、さらに身死する後、七七日の内に広く諸々の善を作らぱ、よくこの諸々の衆生をして長く悪趣を離れ人生に生ずる事を得て、勝妙の楽を受けしめ、現在の巻属は利益無量なるべし」云々と説かれ、梵網経には「父母、兄弟、和尚、あじゃり、滅亡の日及び三七日至七七日、又大乗経律を講説し斉会して福を求むべし」とある。

いずれも、七七日の重要性を説いたものである。

 ところで仏教では、人間の体は五つの要素が集まってでき上がっていると説いている。五蘊ともいう。五蘊とは、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五つである。

色とは、白とか黒とかいう色ではなく、物質のことである。いわゆる人間の肉体のことである。
受とは、苦楽寺を感じる感情、感覚というべきものである。
想とは、五官を通して認識する知覚のことである。行とは、意識の集まりであり、心的作用というべきものである。識とは知識力である。人間の体は大きくわけると、肉体という色と、精神という心の二つということになる。

6来世ヘの決定

 そこで、人間とは心身を有するわけであるが、これらはまず母胎に宿り、さらに十か月すると出生し、そしてこの世において様々な行ないを為し、次に死を迎え、さらにその人間の業によっていろいろな所ヘ再び生まれ変わる、と考えるのである。

これらのことを仏教では、生有、本有、死有、中有の四有という。

いってみれば、生有とは母の母胎に宿らんとする瞬間のことである。

    本有とは母の体内に宿り、さらに生まれてから死ぬまでのことをいう。

    死有とは、人間が死んで次の中有に移らんとする一刹那のことをいう。

    中有とは、人間が死んで次の生有に移らんとする間のことをいう。

 このように、人間はこの四有を永遠に繰り返しているのである。

生と死は、果物の種と果実の如く、永久に繰り返すことである。
そこで死有と生有と、この二つの間に中有があるのである。
中有にある間は何を食するかといえぱ、香りを食とすると書かれている。即ち香である。

 そして、この中有の期聞は、七日を一期とし、生前の業の強弱と追善供養の功徳の大小が関係して決定されるといわれる。

7七七日以降の追善供養

 たいていの場合、この七七日即ち四十九日に次の生縁が定まるわけであるが、非常に因縁の強い者はそれが定まらず’、中有の間を苦しみながらうろつくといわれている。

そのために、重ねての供養が必要とされるわけである。

そこで、四十九日の法要がすむと、次は一周忌ということになる。

そして三回忌、七回忌、十Ξ回己心、十七回忌、二十三回忌、二十七回息、三十三回忌、三十七回忌、五十回忌である。地方によっては、三十三回忌と二十七回忌をまとめて二十五回忌だけを営む所もある。

 死後、満一年を経過した日に行なう法事を一周忌と呼ぶわけであるが、考えてみると、一年という歳月は、いつしか、残された者の恐しみや苦しみというものを癒し、思い出として故人を偲ぶいい時期といわねぱならない。

四十九日や百カ日では、どうしても悲しみや苦しみが先に立って、自分自身のことに思い及ぶこともないが、一年を経過すると、人間の生と死という間題を考える余裕をもつことができるものである。

 なお、一般的、個人的な法事は、三十三回忌、または五十回忌を最後とするのが普通であるが、特に大きな功績を残した人の場合は、百回忌、百五十回忌というような年月を経ても法事が営まれる場合がある。

例えば、一宗の開祖や一寺の開基という人に対しては、その宗派や寺院が存続する限り、その徳を讃え、何百年たっても御遠忌という名前でその法要が続くのである。

寺院ばかりでなく、歴史上の偉大な人物も同様で、画人、詩人、政治家等においても営まれる場合がある。

8お寺のない人はどうしたらよいか

 最近、法事を営むにしても、また葬式を行なうにしても、核家族化し、故郷を離れて遠くに居を構えているという場合多く、しぱしば、これら仏事について困る場合が多い。

 葬儀の場合は故郷に戻って行なうこともあるが、これとて、遠方で物理的に難しい場合もある。

このような時は、近隣の葬儀杜に頼むことである。もし、希望する宗派の僧侶の出仕を仰ぎたいと思うならば、その旨葬儀社に連絡すると、しつらえてくれる。または、故郷の檀那寺に依頼をして、近くの同宗派の僧侶を紹介してもらういう方法もある。

 なお、どうしてもそのようなことができない場合は、残された者が毎日手を合わすことであり、盆や彼岸にどこかの寺院に行って施餓鬼などを願うととであり、努めて墓参をするということである。

 最近は、住居事情が変わって仏間というものもなく、多くの場合は仏壇すらないという家庭が多い。
本当に先祖を供養しようと思うなら、アパートでもマンションでも収まるような小さな仏壇が仏具店に売りているから買い求め、これをもって先祖の供養をすることである。

9都会での年忌法要はどうしたらよいか

 都会における葬儀や年忌法要というものは、場所柄、様々な困難が伴う。

アパート、マンション住いであれば、近隣の集会場を利用するのもよいし、近くの寺院に依頼すろのもよい。ただ、年忌法要というものは、日本の場合、家いうものが中心という考えがあるから、いわゆる本家で営むのが通例である。

 しかし、分家をして相当の年月を経ている場合、本家で営むということもはばかられる場合がある。そのような時は、近くのお寺を借りるとか、集会場を借りて僧侶を呼ぶとか、特に年忌法要は飲食を伴うところから、料理屋を借りるのもよい。

ただ、商売人は縁起をかつぐところから、法事後の食事はできても法要は他でやってほしいという所が多い。しかし、時代の変遷とともに、一流のホテルでもこれらの法要を受け付けているから、一度は交渉してみることである。なお、年忌法要の場合は、場所が決まれば檀那寺の僧侶を呼ぶのが好ましい。

現今でも日本では宗派占いうものの中に家が組み込まれている関係上、便利なようで不便な
場合が多い。葬儀を葬儀社に適当に頼み、宗派を無視して戒名を頂いたりすると、後々困難の原因となりかねない。

だから.檀那寺があれば、遠くても一度相談することが望ましい。
仏数という大きな視点からいえば宗派というものは小さな存在であり、さしてこだわることでもない。

ただ、家の宗派と違った僧侶に法要を営んでもらっても決して聞違いではないし、先亡が迷ったりするというととはない、ということを断言しておきたい。

各宗派によって決められた儀礼というものは、それぞれに特色と差異をもつていても、先祖を供養するという目的はいずれも一つであろところから、こだわる必要はない。

どこかヘ出かけるのに、歩いて行くか、車で行くか、飛行織に乗るかという、その手段が異なるというだけで、行くという目的には変わりがないからである。

 butujihon

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